ホスピタルレポート-現役医師に密着- 第6回 血液がんの研究

子育てと血液がんの研究を両立 日米の学会で若手研究者として表彰

神戸大学大学院医学研究科 血液内科学分野
若橋 香奈子 医師

血液がんについての優れた研究成果により、米国での学会で表彰された女性医師がいる。子育てをしながら研究生活を続けて得た栄誉だ。
阪神・淡路大震災で祖母を失ったことをきっかけに、医師の道に進んだ女性医師の活躍を紹介する。

若橋 香奈子 医師
神戸大学大学院医学研究科
血液内科学分野
若橋 香奈子 医師

1978年神戸市生まれ。2005年宮崎大学医学部卒業。兵庫県三田市民病院と神戸大学医学部附属病院での初期研修ののち、2007年社会医療法人愛仁会高槻病院に勤務。2008年神戸大学病院勤務。2009年神戸大学大学院医学研究科血液内科学分野に入学。

研究室に並ぶクリーンベンチの1つに陣取り、マイクロピペットを使って、手際よく試薬を小さなプラスチック製の試験管に分ける作業に黙々と取り組む、神戸大学大学院の血液内科学の若橋香奈子氏。コツコツ積み上げてきた研究成果を、2015年の米国骨代謝学会で発表した結果、優れた若手研究者を表彰する「Young Investigator Award」を受賞した。さらに、その研究成果を、同じ年の日本血液学会で、やはり優れた若手研究者だけに発表の機会が与えられる「Plenary Session」で発表する栄誉を得た。

米国骨代謝学会は、骨粗鬆症など骨の代謝についての学会であり、一方の日本血液学会は、白血病やリンパ腫など造血器腫瘍(血液がん)についての学会である。一見、まったくつながりがないように思えるが、若橋氏の研究成果は、そこを橋渡しするものであり、だからこそ、日米の分野の異なる学会がそれを評価したといえる。

血液がんを骨から見直す独自の視点が高い評価に

若橋氏が研究テーマとして取り組んできたのが「骨髄線維症」という血液がんだ。骨髄では赤血球や白血球、血小板などの血液細胞が作られている。骨髄線維症では、何らかの原因で骨髄の中が、コラーゲンなどを作る線維芽細胞で埋め尽くされ、血液を作る能力が低下する。その結果、赤血球が十分に作られないので貧血になり、倦怠感、動悸、息切れなどの症状が目立つようになる。出血を止める役割を持つ血小板も少なくなるため、皮下出血や鼻血、歯肉からの出血などの症状も出てくる。しかし、治療法は確立されておらず、抗がん剤や造血幹細胞移植という治療が行われている。

血液がんとして扱われてきたこの骨髄線維症を、若橋氏は「骨の病気」としてとらえ直した。骨髄線維症の骨髄の中では、線維芽細胞が増えているが、同時に骨硬化という現象も起きている。若橋氏はここに注目し、なぜ骨硬化が起こるのか、その仕組みの解明に取りかかり、マウスを使った実験を続けてきた。

その結果、骨髄線維症では、骨の代謝にかかわるビタミンDが関与していること、ビタミンDの影響が健常な場合より強くなっており、それにより骨を作り出す骨芽細胞が異常に増えていること、そのために骨硬化が起こっていることなどを突き止めた。そして、ビタミンDなどが骨髄線維症の治療の鍵になり得るとの結論を導いた。

こうして、骨髄線維症での骨の代謝の異常を解明したことが、米国骨代謝学会で評価された。一方で骨髄線維症の新たな治療の可能性を示したことが、日本血液学会で評価され、学会奨励賞も受賞した。

阪神大震災で祖母を失う。二浪の末、宮崎大学に

若橋氏が医師になろうと決心したのは、阪神・淡路大震災で、同居していた祖母を亡くしたことだった。1995年1月17日の明け方、兵庫県南部を襲った地震により、若橋氏が住んでいた2階建ての家は、1階が潰れた。2階の子ども部屋で寝ていた若橋氏はほとんどけがをしなかったが、1階で寝ていた祖母は家の下敷きになった。「両親と兄、近所の人の手も借りて、必死に助け出したが、そのときには亡くなっていた」という。

それでも病院に連れて行こうと、家の前の国道を通りかかったトラックを止め、近所の病院に運び込んだ。病院は倒壊こそしていなかったが、停電しており自家発電で何とか急場をしのいでいた。大勢のけが人が詰めかけ、「映画や小説に出てくるような、野戦病院のような状態だった」と若橋氏は振り返る。両親らは家の片づけのために帰宅し、若橋氏は一人、毛布にくるまれた祖母のそばで、何もできず、じっと見守るだけだった。

「二度と経験できないような状況の中で、何かしたいのに、何もできない自分がいた」(若橋氏)。もともと物理など理科系の科目が好きで得意だった若橋氏は、大学は工学系の学部に進学しようと漠然と考えていたが、この「辛く悲しかった思い」を胸に医師になることを決意した。

このとき若橋氏は兵庫県立長田高校の1年生。医学部進学をめざすと決めたものの、「部活(バレーボール部)に熱中し、猛勉強とはほど遠かった」。3年の2学期から予備校の講習を受け始めたが「ま、浪人してもいいかなという気分だった」と苦笑する。

現役時には、前期は大阪市立大学医学部、後期は信州大学医学部を受験し、あえなく不合格となった。河合塾大阪校に通い、再挑戦へのスタートを切った若橋氏だったが「学校の立地が良くなかったかも」と苦笑いする。というのも若橋氏は大のミュージカルファン。大阪の駅から河合塾への通学路には梅田芸術劇場が立ちはだかっていた。

「小遣いが限られていたので、観劇できる機会は少なかったが、楽屋口で出演者をずっと待ち続ける時間だけはあった」。そんな1年を過ごし、前期は香川医科大学(現・香川大学医学部)、後期は神戸大学工学部を受験し、神戸大には合格したものの、医師への道はあきらめきれず、二浪の身となった。

さすがに、これ以上の浪人はできないと不安になり、「猛勉強とはいかなかったが、やるべきことはやった」結果、宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)に合格した。こうして、1999年に若橋氏は医師への一歩を踏み出した。

ミュージカルへの思いが血液内科の道を開く

宮崎医大での学生生活の中で、若橋氏は今につながる指導者に出会う。2年生のとき「免疫関係の話を、大学以外の研究者から聞く」という課題が与えられた。若橋氏は、附属病院での看護実習を通じて知り合った看護師から、「神戸市立西市民病院の片山義雄先生(現・神戸大学血液内科講師)は、すごい先生」と紹介され、地元の神戸に出向いた。そして片山氏から「免疫学も含めた血液内科の診療や研究の話をわかりやすく話してもらった」という。

この時点では、血液内科に特に興味はなかったという若橋氏だが、ミュージカルが片山氏との再会のきっかけになった。若橋氏は、その数カ月後に本場・ニューヨークのミュージカルを観ようとニューヨークに行く予定だった。一方、片山氏はその直後からニューヨークのマウントサイナイ医科大学に留学していた。そこで若橋氏は片山氏に連絡し、マウントサイナイの見学をしたいと申し入れたのである。片山氏は快諾し、留学先での研究の内容を聞かせてくれたという。

若橋氏は4年生のときにも、ミュージカルを観るためにニューヨークに渡り、片山氏と再会した。このとき、「血液内科分野の研究と診療の進歩の早さを、熱意をもって説明してくれた」。これで若橋氏は血液内科に進むことを決めた。

医学部卒業後は、出身地である神戸で大学病院と三田市民病院での2年間の初期研修を受けた。卒後3年目は神戸大の後期研修医養成プログラムの一環として、大阪の社会医療法人愛心会高槻病院で1年間、一般内科医として勤務した。「救急車は絶対に断らない病院で、内科医として救急医療も担当し、いい経験を積んだ」と若橋氏。そして4年目は神戸大病院の血液内科の病棟に勤務した。

卒後5年目に神戸大の大学院に入学し、研究生活に入った。若橋氏は「4年間の臨床医の経験は、病気の名前と患者さんの症状とを結び付けられる貴重な体験で、研究でも生かしている」と話す。

大学院入学後は、結婚、出産というイベントがあり「順調には研究は進まなかったが、積み上げた成果は評価してもらえたと思う。2017年3月に大学院を修了する予定で、引き続き骨髄線維症の研究を進めていく」と若橋氏。「夫、両親、夫の両親の協力があってここまでこれた。今後は米国留学も視野に研究を進めていく」と抱負を語る。そのときは、家族そろっての留学にしたいと若橋氏は前を向いている。

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