ホスピタルレポート-現役医師に密着- 第5回 心臓外科医

世界に通用する心臓外科医へ。臨床と研究に日々邁進

医療法人社団東京医心会 ニューハート・ワタナベ国際病院心臓外科医長
捶井 達也 医師

医学部卒業後8年目の若手であるにもかかわらず、心臓外科では世界のトップレベルの専門病院で心臓手術などを手がける医師がいる。めざすのは世界に通用する心臓外科医だ。
日々診療の手腕を磨き続けている医師を紹介する。

捶井 達也
医療法人社団東京医心会
ニューハート・ワタナベ国際病院
心臓外科医長 捶井 達也 医師

学医学部卒業。同大附属病院で2年間の初期研修ののち、2011年に富山赤十字病院心臓血管・呼吸器外科勤務。12年高邦会高木病院心臓血管・呼吸器外科勤務。13年金沢大学心肺・総合外科医員。14年からニューハート・ワタナベ国際病院に勤務。16年同病院心臓血管外科医長。

東京・杉並区の浜田山に2年前にオープンした小規模な、しかし全国から患者が集まる心臓外科の専門病院がある。その手術室で「心房中隔欠損閉鎖手術」が行われていた。心房中隔欠損は、心臓の右心房と左心房の間にある心房中隔と呼ばれる壁に、生まれつき穴が開いている病気で、子どものころはあまり症状が出ないが、成人になって呼吸困難や動悸、息切れなどが現れ、日常生活で支障を来すようになる。手術では、その穴を縫い合わせていく。

執刀しているのは、捶井達也氏。医学部を卒業して8年目の若手医師である。通常の手術は胸の真ん中を大きく切開して行うが、この日は、右の肋骨の間を小さく切開し、そこから器具を入れて手術を行った。捶井氏は先輩医師の指示のもと、慎重に、だがてきぱきと手術を進めていく。そして手術開始から2時間ほどで無事に手術を終えた。

格好いい医師の叔父に憧れ心臓手術を見て心が震える

捶井氏は、2009年に金沢大学医学部を卒業、初期臨床研修を金沢大学附属病院で受けたのち、11年に同大心肺・総合外科に入局した。すぐに富山赤十字病院と高邦会高木病院に1年ずつ勤務し、13年に金沢大学に戻った。14年に師事していた教授が東京・杉並区にニューハート・ワタナベ国際病院を開設したのを機にこの病院に移り、心臓外科医の道を歩み始めた。

捶井氏が医師になろうと思ったきっかけは、整形外科医だった叔父への憧れだった。「素直に格好いいと思った」(捶井氏)。その後、テレビドラマ「救命病棟24時」など医師がスポットを浴びる番組を見るにつけ、「医師になりたい」と思うようになったという。

國學院大學久我山高校に入学し、そこで出会った医学部をめざすという友人の兄が医師で、その姿を見ても「格好いい」と思った捶井氏は「医師になる」と強く決意した。「手に職をつけようと思ったわけでもなく、ただ格好いい医者になりたいと思った。父からは『自分の決めた道を進みなさい』と言われただけだった」と捶井氏。

だが、高校3年の現役で受験した弘前大学医学部は、あえなく不合格となった。しかし、不合格となった時点で捶井氏は「まだ自分には〝伸びしろ〟がある」と確信していた。「医師になりたいという気持ちは変わらず、医学部はあきらめきれなかった」という捶井氏は浪人を決め、自宅に近い河合塾町田校の医進コースに入学した。

実際、浪人して成績が上がったので、目標を大阪大学医学部に据え、満を持して大学入試センター試験に臨んだが、自己採点の結果は今ひとつだった。試験後は、河合塾のチューター(進学アドバイザー)と毎日のように話し合い、最終的に金沢大学医学部に目標を変え、見事に合格した。「一時は、私立大学への挑戦も考えたが、金銭的な問題もあり、国立一本に絞った。結果的に、これが良かった」と捶井氏は話す。国立大学ならではの自由な学生生活が送ることができたという。

そうした自由な学生生活を送る中、6年生の病院実習で、捶井氏は心臓外科の手術に出会った。「それまでに見学したどの手術とも違うことを肌で感じ、はっとした。手術室の雰囲気はぴりぴりとして緊張感があったが、医師も看護師もほかのスタッフも、患者さんのために仕事をしていることがわかり、心が震えた」と捶井氏は振り返る。

その手術を執刀していたのが、当時の心肺・総合外科の教授で、現在、ニューハート・ワタナベ国際病院総長の渡邊剛氏であり、助手を務めていたのが、同病院副院長で心臓外科部長の富田重之氏である。スピード感と緊張感のある手術を見て、「人生一度きり。心臓外科医への道に挑戦しよう」と捶井氏は決めた。

卒後3年目で年100件の手術 ヒトモノなどの手配も学ぶ

金沢大学附属病院で初期研修を終えた捶井氏は、心肺・総合外科に入局した。そして、医局人事ですぐに富山赤十字病院の心臓血管・呼吸器外科に勤務することになった。心臓血管・呼吸器外科といっても、実際には消化器外科も含めた外科全般の診療を担当した。「わずか1年の勤務だったが、外科という診療科の基礎を学んだ大切な1年間だった。助手も含めて担当した手術は100件近い」(捶井氏)。

初めてメスを握ったのは、初期研修医のとき、鼠径ヘルニア(脱腸)の手術だった。それまで鼠径ヘルニアのほか、盲腸や痔などの手術の助手を務め、手技も練習を重ねてきてある程度の自信はあったが「いざメスを持つと不安が前面に出てきた」という。無事に手術を終え、捶井氏は外科医としての一歩を踏み出した。

心臓外科の初めての手術は、腹部動脈瘤の手術だった。腹部動脈瘤は、心臓から送り出される血液が流れる太い動脈(大動脈)が、お腹の辺りで風船のように膨れて大きくなった状態。手術は、膨らんだ大動脈部分を人工血管に置き換えるというもので、手術の間は、一時的にお腹と足の血流を止める。この手術も無事に乗り切ったことで「心臓血管外科医になった」と捶井氏は振り返る。

富山赤十字病院の次に勤務した福岡県の高木病院は、新たに心臓血管・呼吸器外科を開設したばかりだった。そのため、診療を行ううえで必要になる看護師や臨床工学技士らの教育、手術に必要な装置や機器の購入など、手術以外の仕事も担当することになった。捶井氏は「ここでの経験は、現在の病院でも生かされている。貴重な1年だった」という。

医師になって5年目、捶井氏は金沢大学に戻り、大学院で博士論文のための研究を始めた。研究内容は、心房中隔欠損という病気を、新しい機器によって短時間で治療し、その成績を検証するというもの。研究では、12頭のブタを使い、6頭は新しい機器で、残り6頭は従来の方法で手術し、その成績を比較した。いずれも人工心肺を使って心臓を止めずに行う手術だが、新しい機器を使った手術は明らかに時間が短縮されることがわかったという。

捶井氏は「手術の比較結果も重要だが、自分にとっては人工心肺を使うという実験そのものが重要だった。これは、一人でできるものではなく、先輩、後輩など仲間の協力があってこそ。また、人工心肺の使い方にも習熟した。この経験も生きている」と話す。

専門病院立ち上げとともに〝師匠〟のもとに駆け付ける

捶井氏が師事していた渡邊氏、富田氏らが、金沢ではなく東京に小規模の専門病院を開設する話は、捶井氏が金沢大学に戻ったとき、すぐ耳に入ってきた。そして、上司や先輩に開設メンバーとして参加しないかと誘われた捶井氏は、大いに迷ったという。自分の技量や経験の不足、病院が採算に乗るのかという経営面の不安、医局を離れることで今後の勤務先についてのバックアップもなくなるなど、「不安材料がたくさんあった」と捶井氏は話す。

しかし、自分がなぜ医師になったのか、なぜ心臓外科医をめざしたのかという原点に立ち返って考えたとき、そうした不安は振り払われていた。「一人でも多くの患者さんを救いたい。新しい病院は、それを実現するのに一番近い病院だ」と確信したからである。

ニューハート・ワタナベ国際病院で一番の若手である捶井氏が手がける心臓手術は、1年間に20件弱とまだ少ない。「執刀医のサポート役として、患者さんへの説明、検査データなどの整理とカルテへの入力、患者さんの紹介元への連絡など、雑用に追われているのが現実。でも、渡邊総長のように〝自分の手術〟というものを作りたいと思っている。今はその準備期間だ」と捶井氏は忙しい毎日も大切な積み重ねと考えている。

この病院では、「ダ・ヴィンチ」という手術支援ロボットを使っての心臓手術も行っている。手術支援ロボットはわが国でも普及してきたが、心臓手術を行える医師も施設もまだ少ない。捶井氏は「心臓手術を行うには、手術支援ロボットの販売会社に認定される必要がある。これまでロボットの操作に習熟する訓練を行ってきて、年内には手術の〝免許〟を取得したい」と意欲を燃やしている。努力を惜しまず、すべての経験を自分の仕事に生かしてきた捶井氏は、世界で認められる心臓外科医をめざし続ける。

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