ホスピタルレポート-現役医師に密着- 第4回 地域医療

福島の住民に寄り添い医療支援を続ける若き医師

東京大学医科学研究所 特任研究員
坪倉 正治 医師

東日本大震災と原発事故の被災地である福島県で、現在も東京から週3日通い、医療支援を続ける医師がいる。
放射線の健康被害を心配する子どもや母親に寄り添う中で、内部被曝の調査が必要と判断し、一から検査体制を立ち上げた。放射線の健康への影響に向き合う若き医師を紹介する。

坪倉 正治 医師
東京大学医科学研究所
特任研究員
坪倉 正治 医師

1982年大阪府生まれ。2006年3月東京大学医学部卒業後、同年4月亀田総合病院研修医。帝京大学ちば総合医療センターを経て10年4月都立駒込病院勤務。11年4月より東京大学医科学研究所研究員。11年5月より南相馬市立総合病院非常勤医を兼務。12年3月より相馬中央病院とひらた中央病院の非常勤医も兼務。

「少し狭いところに入りますが、心配はいりませんよ。そこに2分間ほど立っていてください。それで検査は終わりです」。
ちょっと不安そうな様子の人に優しく声をかけているのは、東京大学医科学研究所特任研究員の坪倉正治氏。といっても、ここは東京ではなく、福島県南相馬市にある南相馬市立総合病院だ。

坪倉氏は、東日本大震災直後の2011年4月から福島県内で週3日、医療支援活動を続けてきた。今、検査しているのは、放射線の内部被曝を調べるホールボディカウンター(WBC)という装置である。
現在、坪倉氏は、南相馬市での検査や診察だけでなく、隣接する相馬市にある相馬中央病院などの非常勤医師も兼任し、福島県での3日間は県内を走り回って支援を続けている。

パリでの学会発表直後に福島での医療支援の要請

東日本大震災が起きた2011年3月11日、坪倉氏は東京の都立駒込病院で血液内科の医師として診療をしていた。大きな揺れに、大阪で生まれ育った坪倉氏は阪神・淡路大震災を思い出したという。そして「被災状況が明らかになるにつれ、医師として何か手伝えないかと考えた」(坪倉氏)が、当時の病院の雇用体系では、派遣要請に応えられなかった。

坪倉氏は、翌月の4月から東京大学医科学研究所の大学院に進む予定になっていたうえ、4月3〜6日にパリで開催される欧州造血細胞移植学会での発表も控えていた。そこで「帰国してからあらためて考えることにした」(坪倉氏)。

学会終了後は数日間のパリ観光を楽しむ予定でいた坪倉氏だが、医科研の指導教官である上昌広氏からホテルに電話が入った。そして「発表が終わったらすぐに帰国して、福島県南相馬市の医療支援に行くように」との命が下った。以前から「行けるところがあったらすぐに向かいます」と言っていた手前、断るわけにはいかず、観光をあきらめ、すぐに帰国した。

帰国早々、坪倉氏は自分の車の助手席に乗せた東北大学の医学生(相馬市出身)の道案内で南相馬市に向かった。東北自動車道は、まだ完全に修復されておらず、でこぼこの道を長い時間をかけて南相馬市にたどり着いた。そして市役所で桜井勝延市長と面談しているときに「市長に病院の現状報告に来ていた南相馬市立総合病院の及川友好副院長と運命的な出会いをした」と坪倉氏。

及川氏から、震災前には14人いた医師が4人に減ってしまったこと、病院の機能が失われていることなどの窮状を聞いた坪倉氏は、そのまま市内各地の避難所を回って診療を手伝うようになった。

血液内科という専門はさておき、目の前にいる住民が少しでも楽になるように対応することで手一杯となったと坪倉氏。避難所では、小さい子どもを持つ母親らから放射線の影響についていろいろと聞かれ、「浴びたら死んでしまうのか」と心配する人もいたという。坪倉氏は「浴びた量が問題であり、今回の事故では心配ない」とわかりやすく説明を繰り返した。やがて、母親らが開く勉強会に呼ばれ、講演するようにもなった。

5月に入り、震災直後の混乱が収まってきたころを待って、坪倉氏は「放射線のリスク、子どもたちへの影響をきちんと調べるべきだ」と行政関係者らに訴えた。そして、内部被曝の実態を把握するためのWBCが7月に南相馬市立総合病院に設置された。

フル稼働で1日110人ほどの検査ができるが、当初は半年先まで予約が埋まったという。そして明らかになったのは、住民の内部被曝は極めて少なく、健康への影響はほとんどないということだった。

こうして地道に行った約1万人の検査結果を分析した論文が、2012年に世界的な権威のある医学雑誌に掲載された。同年には、継続的に社会貢献した医師として「第1回明日の象徴」を受賞し、その活動が認められた。

臨床医以外の道も模索。研修で素晴らしさに気付く

週3日は福島での医療支援、残りを東京での診療と研究と、忙しく活動する坪倉氏だが、大学時代は医師という仕事に就くことに疑問を持ち、医師以外の道を探った。

坪倉氏は大阪で生まれ育ち、灘中学校・高校と進み、現役で東京大学理科三類に合格した。医師をめざしたのは「人と接し、話すことが好きだったから。一方で数学や物理が大好きな自分からすると、数十兆個ある人間の細胞はどんな方程式や定理でも先が読めない存在。そんな訳のわからない人間の体を知りたいと思ったから」だという。

しかし、大学に入ると幻滅することが多かった。背景は医療過誤訴訟の増加だった。1995年には年間488件だった訴訟が増え続け、坪倉氏が入学した2000年には800件を超え、在学中の2004年には1110件に達した。「人の命を救うための医療なのに、患者さんに訴えられることに脅えながら病院で働くことに、どんな意味があるのだろう」。坪倉氏は根本的な疑問に突き当たった。そして同じような問題意識を持つ同級生らと、医師以外の道を模索し始めた。

「医療という視点では世界を見るには狭いと感じ、企業のインターン研修を受けたり、卒業を前に就職活動をしたりと、右往左往した」と坪倉氏。先輩である医師に「医師以外の道をめざしたい」と相談すると、多くの先輩から「そういう生き方もあるね」という答えが返ってきた。しかし、ただ一人、そういう坪倉氏の考えに異を唱えた先輩がいた。それが、福島に医療支援に行くよう命じた上氏である。「医師として下積みを重ね、高齢の人とも小さな子どもとも話せるようになってから、そういう口を利け、と怒られた」と坪倉氏。

上氏との出会いをきっかけに、坪倉氏は卒業後はまず研修医として修業し、それから進む道をもう一度考えることにした。そして千葉県鴨川市の亀田総合病院で2年間の初期研修を終えたときには「医師を辞めようとは思わなかった。指導医らの教育や臨床経験を通して、臨床は頑張った分、報われる素晴らしい仕事だとわかったからだ」という。

初期研修を終えてから2年間、帝京大学ちば総合医療センターの血液内科に勤務し、2010年4月から都立駒込病院に勤務した。血液内科を選んだ理由は「がん細胞は、ヒトの体の細胞なのに未来が読めない存在。高校時代から考えていた人間の細胞の不思議を解明するには、がん細胞に向き合う必要がある」と考えたためだ。そして、駒込病院での1年間の勤務を終える直前に東日本大震災が発生した。

自らの研究・臨床を磨きつつ、後進の指導にも力を入れる

5年間、福島での医療支援を続ける中で、血液内科の専門医として以前のような診療を続けることにはならないだろうと坪倉氏は話す。「それまで医師は患者さんが来るのを待つ仕事だと考えていたが、住民のもとに出向き、いろいろな考え方をする人と話すことで、人の生活や健康に関わり、守ることも医師の仕事だと視野が広がった」。さらに、がんの診療をしていた坪倉氏が、放射線の影響でがんになるのではないかと不安を持つ住民に向き合うことは「実はつながっていることにも気付いた」という。

坪倉氏は今後しばらくは、放射線とその影響についての研究をさらに進めていきたいと考えている。「広島や長崎などでは、戦後、放射線被曝の影響に関する研究が進められてきた。しかし、現在では放射線によって異変を来した遺伝子とがんについての研究が中心になり、放射線の影響そのものを研究する若手医師はほとんどいない。この分野の研究を担いたい」と坪倉氏は先を見つめる。

住民の不安に向き合い、生活に寄り添う中で、放射線の内部被曝についての論文を執筆し、世界に認められた坪倉氏のもとには、現在、約10人の若手医師や研修医が集まっている。「自分自身も学位論文を書き上げてまだ1年しか経っていないが、ようやく若手の指導をできる立場になった。それは自分の成長にもつながる。住民の健康を守る中で得たデータをきちんと後世に残し、研究を後進につないでいくことが自分の義務だと考えている」。坪倉氏の福島での活動はさらに続き、それは連綿と引き継がれていく。

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